-社長プロフィール① BASEBALL-

栄光に満ちたエース級 野球時代

球との初めての出会い

小学二年当時は埼玉県越谷市内に住んでいました。
現在とは違って周囲はまだ田畑だらけ。冬には雪合戦ができるほどの雪景色になったものです。

学校では机に向かう教科より、体育や図工が好きな少年でした。
転校生でもあったので早く同級生に友達を作りたい! と思っていました。

学校が休みの週末に校庭へいくと、ユニフォーム姿のかっこよいクラスメイトたちが少年野球をしていたのです。
何もせず、ただ眺めているわたしを見て、クラスメイトの一人の子が「一緒に野球やらない?」と誘ってくれました。

当時は野球がやりたい!というより、とにかく同級生と仲良くなりたい!という思いが強かったので、 二つ返事で少年野球チームへ入ることになりました。

会では毎回優勝を経験

入部した少年野球チームは、小学校のグラウンドを10周、キャッチボールに守備練習。
その1時間メニューの朝練を週4日行うハードなチームでした。
ですから、町内大会では負けなし。

それでも同じ失敗を繰り返すと、監督からビンタをくらうこともありました。
今では考えられないかも知れませんが、当時はそれが当たり前の時代でした。
勝負事では勝ってあたりまえ、の精神はこのころ培われたのです。

中学に入るとまた転校しました。そこが今後長く住むことになる横浜市でした。
越谷の同級生たちは越谷シニアという硬式野球のチームへ入っていきました。
私も同じチームに入りたかったですが、横浜から越谷までは遠方すぎるため、
中本牧シニアという横浜のチームへ入りました。

 そのチームは甲子園常連校である横浜高校への選手を輩出する名門クラブでした。
全員が4番ピッチャーを務められる主力選手ばかり。レギュラーの座をとることは難しいな、と思ったものです。
それでも、野球がとにかく楽しく、遠く越谷の同級生らと試合できる唯一の希望でもありました。
 
その頃の私は、少年野球の朝練が体に染みついたせいか、
雨でも強風でも台風でも毎日グラウンドを10周しないと落ち着かない体となっていました。
そのおかげもあり、下半身の強化ができて、コントロールの定まらない投球が見違えるように安定し、試合でも良いピッチングができるようになったのです。
基礎の大切さを改めて痛感した瞬間でした。メンバーにも非常に恵まれた甲斐もあり、
私は周りに助けられながら、エースとして活躍することができました。
 
春の大会決勝の対戦相手はあの越谷シニアでした。
しかし、私の同級生たちは誰一人としていませんでした。
みんなレギュラーになれず、辞めていってしまっていたのです。
越谷の同級生たちと野球がしたかった私にとっては残念、というより無念で仕方なかったです。

そのときの決勝戦では越谷シニアに延長戦の末、敗れてしまいましたが
夏の大会ではその悔しさをバネに全国優勝することができました。
ちなみにその夏の大会での準々決勝相手は、あの松坂投手率いる江戸川南シニアでした。

球との縁(えにし)と引退

中学最後の夏休みには、日本一を競う「ジャイアンツカップ」に出場しました。
決勝戦は、読売巨人軍本拠地の東京ドーム。緊張感とともに、興奮の気持ちでいっぱいでした。
なぜなら、決勝戦の相手は、一度負けた、あの越谷シニアだったからです。
そして見事、越谷シニアに勝利することができました。野球をつうじて様々な縁を感じることのできた中学生活でした。

高校へ進学しても野球を続けました。野球の名門、横浜高校へはあえて進学しなかったのは、
いつまでも挑戦者でありつづけたいという思いと、越谷で出会った同級生たちと試合をしたい、
という野球に対する純粋な気持ちがあったからです。

しかし、それまでの経歴から、活躍してあたりまえ、という目で見られてしまい、
伸び伸びとした野球ができなくなっていきました。結果、よい成績を残すこともできませんでした。

大学は学校推薦で明治大学へ入学しました。
ライバルであり、仲間でもあった同級生たちとまた試合がしたい、勝負がしたい、
という野球への熱い思いは冷めることなく、大学でも野球部へ入部。

しかし、時すでに遅し。私は中学時代で急成長した驕りから、
さらに成長するための努力を怠っていたため、
もう試合にすらでる機会を得ることはできませんでした。

中学のときまで毎日続けていた、あのランニングをしていなかったのです。
基礎基本がどれだけ大切かを忘れ、ちっぽけな能力に頼った挙句でした。

そして、卒業後は一般の会社へと就職するになりました。