鳥海敦士のプロフィール

世間も仕事も何も知らない営業成績0円の仕事が出来ない営業マンが、ある事をきっかけに1ヶ月新規顧客13件獲得。売上げ400万円をたたき出すビジネスマンに変わるまで。

現実が目の前に。野球のスキルは全く仕事には生かせなかった

毎年10月になると、TBS系のドキュメント番組「プロ野球戦力外通告 クビを宣告された男達」(2004年~放映)の放送がありますが、私は、新卒入社した22歳3月の新入社員研修で同じ経験を味わったのです。 名門大学で野球していました。実は、松坂世代で松坂のいる江戸川南シニアを倒して、日本一のピッチャーにもなったことがあります。と言っても、受付の女性にも社長さんにも取引先にも全く通用しません。

しかし、野球をしていた経験すべてが無駄ではなく、ビジネスにも野球と同じように、結果を出す為のコツやノウハウがあることがわかりました。その結果、野球と同じように防御率・打率と同じように数字で結果を出せる様になったのです。

越谷で野球と出会う

小学校2年生に上がると、越谷市内に転校しました。
小学校の頃は、とにかく外で遊ぶことが大好きな少年でした。越谷は、今と違って田んぼだらけでした。雪が降るとあたり一面が白く、雪合戦が出来る程です。

そんな田舎育ちの私は、勉強があまり得意ではなく、どちらかというと体育と図工が好きな少年でした。しかし、学校がある日はいいのですが、土日と祝日は至って暇です。 特にやることがありません。何せ転校生ですから。

そんな暇な時間を過ごしていると、遊びたくなって土日に小学校に入ってみると、少年野球をやっているクラスの友達がいました。「面白そうだな…。」「遊びたいなぁ…。」と思いながら眺めていました。何よりユニフォーム姿が格好良かったのです。その時は野球がしたい、という思いよりもとにかく同級生と遊びたい、という気持ちが強かったのです。

その様子を見ていた同じクラスにいた竹内(少年野球のコーチの子供)に野球しないか?と誘われて、5丁目町内会にある少年野球をやってみることにしました。

町内大会では毎回優勝

もともと運動神経の良かった自分ですが、それ以上に朝練が効果を発揮しました。
今では、プロ野球選手も推奨するアーリーワーク。通称朝練。私が所属したチームは、毎日5時30分に起きて、6時5分前に集合。そして、まず小学校のグランドを10周。キャッチボールをして守備練習して1時間の練習を週4回する。

こんなハードな練習をする少年野球チームは、他にはいませんでした。さらにあまり同じ事ばかり失敗するとビンタ!されました。今では考えられないと思いますが、昔はそれが当たり前だったのです。そんな練習量の成果もあって、町内大会では無敵でした。小学校5年生・6年生も町内大会では負けたことがありませんでした。さらに6年生になると、4番ピッチャーというチームの中心的存在でもありました。
勝負事では勝って当たり前。負けるなんて考えられないという精神は、この監督に教わりました。

小学校。野球を始めた頃

中学校でまた転校、野球を続けるきっかけに

中学校に進学すると、また転校です。90キロほど離れた神奈川県横浜市洋光台に引っ越しました。そのとき、小学校の同級生は、越谷シニアという、中学校の野球部ではなく硬式ボールで野球をするクラブチームに入って、土日に硬式野球をやっていました。

私もその話を聞いて、越谷の同じチームに入りたいな、と思っていましたが、中学校1年生の私が90キロも離れている所にはさすがに通いきれません。なので、私は、横浜にも同じように硬式ボールで野球をする強いクラブチームがあるよ、と教えてもらった中本牧シニアというチームに入ることにしました。 同じチームメートと試合できたら面白いだろうなぁ、と思いながら…。

紹介してもらったチームはめちゃくちゃ強いチームだった

入部後に知ったのですが、このチームは、甲子園常連校でもある横浜高校を牽引するほどの主力選手を何人も輩出する名門クラブでした。私が1年生の時、後に横浜高校で活躍する中学3年生の選手が大勢いました。さらにドラフト上位指名を受けるあの中日ドラゴンズ森野選手もいました。

そして、同級生には、私よりもうまい選手が何人もいます。というか、全員4番でピッチャーというチームの中心選手ばかりでした。そんな同級生だけでも人数にして50人ほどいます。さらに1学年上にはまた30人いる。レギュラーになるには大変な事だな、と思いました。でも、レギュラーになれるかどうか?よりも野球がとにかく楽しかったです。それは、越谷のチームメートと試合が出来る唯一の希望だったからです。

中学校3年。新チームでたまたまでエースに

その後、中学1年生・2年生と進み、自分達が主力となる中学校3年生になりました。 私の実力はというと、ちょっと背がでかいだけでとにかく打てなかった。特にカーブが全然打てないのです。それもそのはず、土日の練習以外素振りはしていないのです。

素振りよりも私はとにかく毎日5キロから10キロほど走っていました。少年野球の良い癖が身についていて、毎日グランド10周しないと落ち着かないのです。雨でも風が強くても台風が来てもとにかく走っていました。 毎日走った事で、下半身がしっかりしてきてノーコン投手だった自分が見違えるようにコントロールや制球が安定して試合を作れるピッチングが出来る様になっていました。

さらに、なぜか打たれない。
ちょっと荒れ玉気味だったという事とシュート回転する癖のあるボールなので、打たれないのです。そして制球も安定し、自分がピッチャーをするとチームが勝てる。それも圧勝です。そんないろいろな偶然が重なり、新チームでは自分がエースになったのです。ちなみに、この時、バッテリーを組んだキャッチャーが98年横浜高校で春夏連覇したキャプテン小山。他にも横浜高校春夏連覇したメンバーが4人もいたのです。

非常にメンバーにも恵まれた環境で、どちらかというとエースというより周りに助かられる形でエースになったのです。

春の大会と夏の最後の試合の相手は…

私がエースになり、チームも順調に勝っていきました。そして、春の大会は決勝戦まで進みます。その春の大会の決勝戦がなんと私が行くはずだった越谷シニアです。しかし、そこに私が知っている同級生は一人もいませんでした。レギュラーになれずみんな辞めてしまったのです。残念でした。というよりも無念でした。そして、春の大会は、この越谷市シニアに延長で破れて準優勝で幕を閉じました。

しかし、エースになって、初めてワンシーズン投げた事で経験したことがない痛みを覚えたのです。理由は変化球を投げすぎたための故障です。肘を痛めてしまったのです。 約3ヶ月間投げる事が出来なかったのですが、ある方の紹介で、マッサージを受けました。このマッサージが効果てき面で、約1ヶ月後には投げれる様になったのです。今まで痛くて投げれなかった事が嘘みたく指にボールがかかって投げれるようになったのです。

夏の大会でエースとして復活!​

投げれるようになった事でエースとして復活しました。その後、試合はチームのバランスが良くなり、夏の大会は負けなし。何とか勝ち上がって、最後の夏の大会は、私でも予想していなかった全国大会優勝を果たしたのです。

ちなみにそのときの準々決勝は、あの松坂率いる江戸川南シニアです。中学生にもかかわらず、藤本という選手に神宮球場でホームランを打たれてしまった私ですが、チーム全員のバッティングに救われて勝つことが出来ました。 さらに、夏休みにはシニアリーグ・ボーイズリーグ・ポニーリーグの3つの中学硬式野球団体が集まって、日本一を競う大会「ジャイアンツカップ」という大会も出場しました。

中学。全国大会優勝の時
ジャイアンツカップでの最後の試合

ジャイアンツカップでも何とか決勝まで行くことが出来ました。大阪のボーイズリーグやポニーリーグを倒していった決勝戦は、読売巨人軍の本拠地東京ドームで試合です。 中学校最後の試合だったので緊張があった。というよりもとにかく嬉しかったです。理由は、中学野球最後の試合の相手は、一度負けたあの越谷シニアだったからです。

越谷シニアに勝利!いろんな支えと縁が成果を出した

ここまで来ると、最後まで越谷と横浜の縁がこのように成長させてもらった、と思います。 本当に漫画やドラマの様な不思議な縁です。

ジャイアンツカップ優勝メダル

高校入学はスーパールーキー扱い!?

また、ここでも同じように同級生と試合がしたい!そんな純粋な思いで、横浜高校とは違う学校に行きました。やはり、性分としては挑戦者でずっといた方が伸びるタイプなのでしょう。しかし、入学早々から中学校で全国優勝したチームのエースとして扱われます。今までの先輩や同級生との接し方も違ったモノでした。

活躍して当たり前!結果が出して当たり前の環境

スーパールーキー1年生という扱いでしたので、とにかく伸び伸びと野球が出来なかった。この3年間はあまり結果を出すことが出来ませんでした。

野球はビリ。勉強はクラス2位に自分が一番驚く

野球は、高校時代全く結果が出ないのですが、勉強はクラス2位でびっくりしました。勉強したのはテスト2週間前だけです。それでこの成績ですので、勉強は特に問題ありませんでした。部活漬けの毎日ですので、アルバイトは全くやった事がありませんでした。

高校入学時 髪を切る前
高校入学初日。坊主にして機嫌が悪い

勉強成績がよかったので、学校推薦で明治大学に入学

公式戦にはほとんど試合に出る事はありませんでしたが、無謀にも明治大学の野球部セレクションに参加。野球部推薦とはいきませんでしたが、勉強の評価点が良く商業科推薦という形で体育会大学野球部への推薦が取れたのです。この時、横浜高校が甲子園春夏連覇で高校野球全体が盛り上がっていた時です。

強いチームでの自分磨き

また、この時も中学校や高校野球と同じ気持ちで大学野球部に入部しました。ライバルだったあの選手達と同じ環境で同じリーグで試合がしたい。勝負をしたい。という野球がしたい。という純粋な気持ちです。

しかし、時すでに遅し。
高校野球で学んだ経験やスキルを逆転しようと考えても、大学では遅いのです。大学野球=特に六大学野球は、プロになることが出来無かった人材が入ってくる所なのです。大学で伸びてレギュラーになる野手もいます。現に同級生のキャプテンは全く無名の公立高校出身で首位打者に輝いています。

私の場合、一度中学校で急成長していますので、また成長するには、もっと努力が必要だったのです。そうです。毎日のランニングです。その努力を怠り、しがない才能に頼った自分は全く結果を出せず、全く試合に出ることも出来ず終わったしまったのです。

OPEN戦。神宮球場にて
野球を引退し新社会人に 体育会野球部から将棋部へ移籍した位の衝撃

大学4年生でやっと自分の年代が来たにもかかわらず、試合には出れませんでした。さらに就職活動もろくにしなかった私ですが、そこは大学野球部のご縁を頂きます。そのとき、洋服が好きでたまらない変わったスポーツマンでしたので洋服屋さんに就職したいな。という気持ちでした。 このとき紹介してもらった就職先が大手アパレルメーカーのグループ会社でした。

退寮前。4年間お世話になった野球部。最後は2軍寮で生活

3年間働く事で営業の基礎を覚える

最初の仕事は、大手アミューズメント会社のダンサー衣装製作の営業です。営業と行ってもマネージャーのような動きが多く、どちらかというと運営のお手伝いという立ち位置です。「営業」と聞くと、新規開拓を求めて目標売上げを足で稼ぐ。そんなイメージもありますが、私は既存ルート営業でしたので、1年間決まった時期に決まった品物を納める。そんな1年間特に問題無いように運営していければ、求められていた結果を出すことが出来ました。

新卒入社3年後に新規開拓営業を行う

このときの経験が今でも生きています。
入社3年もすると、部署内の環境が変わってきて、どんどん売上げが伸びるはずの取引先が頭打ちになりつつありました。 そこで、部長が新規一転営業方針を変えて、なぜか私が新規開拓営業をするように。と、命令されたのです。「まぁ仕事も慣れてきて飽きてきた時期だし、まぁいいか。」位の考えで、新規開拓営業をしたのです。

地獄の半年間。自分のスキルのなさを痛感する

私の就職先は、その業界では誰でも知っているリーディングカンパニーです。既存取引先には、いつも○○さん。ありがとうね。良く来てくれたね。いつも良い品ありがとうね。と、三顧の礼で迎え入れてもらっていました。

しかし、新規開拓営業では、アポを取っていない飛び込み営業ですので、誰も相手にしてもらえません。運良く話を聞いてもらっても、その日に注文も取れません。

ここで、初めて私は会社の名前と信頼という長年の積み重ねた実績の恵まれた環境の上で仕事をしていたことに気づいたのです。そうです。過去を振り返っても、すべて実績のある伝統のある強いチームばかり所属していました。専用グラウンドがあって将来プロに入りそうな優秀な選手。大手企業に所属していた様な環境で野球も新卒の仕事もしていました。

結果を出せない自分に苛立つも意気消沈、ある本屋で衝撃を受ける

いままで勉強なんてした事なかった自分が初めて勉強しないと生きていけない。と感じた瞬間でもありました。
そんな勉強しないといけないな。と言いつつも大学時代によく言っていたスポーツ雑誌の横にあるビジネス書の本棚を見てると 「あなたの会社が90日で儲かる!」神田昌典著。「渋谷で働く社長の告白」藤田進著。という2つの本が目にとまりました。私の会社も本社が渋谷駅にあって、働いていた場所は三宿でした。「営業」「渋谷」「若い社長」と、いう3つのキャッチフレーズが重なり、1冊1,500円の本を2つ3,000円払って本を購入したのです。

自己啓発に繋がり、奮起した本
「渋谷で働く社長の告白」 藤田晋著

特に、渋谷で働く社長の告白は、自己啓発に繋がりました。
世の中には同じ世代でこんなすごい人がいるのか。自分は営業出来ない。売上げ取れない。とかマイナス思考になっている場合じゃない。と奮起しました。というよりも、大学時代は野球ばかりやっていて、その結果、中途半端な実力でしたので仕事には出来ませんでした。それが、社会に出たときにここまで差が出るとは思いませんでした。

私の思考は大学野球の時と同じです。
自分が努力しなかったばかりに高校ではレギュラーになれなかった。そして、雲泥の差をつけられて、4年間で追いつくことが出来なかった。そして、努力もしなかった。過去の悔しさを考えると、今、努力しないと誰にも勝てない。またレギュラーになってやる。そんな思いでした。

新規開拓営業のノウハウを学んだ本
「あなたの会社が90日で儲かる!」 神田昌典著

さらに、ピンクの表紙でかなり怪しい「あなたの会社が90日で儲かる!」は新規開拓営業のノウハウとしては、自分でも実践出来る素晴らしい本でした。クビ寸前だった筆者が、日本でアメリカ直輸入の洗濯機や食器洗浄機をDRM(ダイレクトレスポンスマーケティング)で売りまくる。 しかも、日本の競合最大手企業でもあるTOSHIBA・MITSUBISHI・シャープと勝負して売るのです。こんな厳しい家電業界で、日本サイズにカスタマイズされることなく、アメリカサイズの家電を売りまくる。こんな厳しい環境で結果を出したなら、私の営業でも使えるかもしれない。 この本を読みながら、私は、クビ寸前の営業マン(筆者)=売上げ3ヶ月間「0円」の自分が重なって見えたのです。

本から得た学びを実践する日々

この2つの本に衝撃を受けて、私の頭の中に初めて「社長」というキャッチフレーズ。一番は、「営業ノウハウ」という武器を手に入れた様に感じました。特に今の自分には、この営業ノウハウは目からウロコの品物で次の日からすぐに実践しました。 この本を購入してから、私は、ビジネスの世界で初めて野球の様なグローブとボール・バットの道具を購入して、コーチにキャッチボールの仕方・バッティングの仕方を教わった様に感じを受けたのです。

そして、ひたすらタウンページ片手に電話をかけました。さらに、FAXDMでは無料の小冊子で集客。そして、失敗・失敗の連続。また、神田昌典氏の本を購入。電話をかけまくる。また、失敗・失敗・本を読み返す。さらに、本を購入。また失敗・失敗。また読み返す。電話をかけまくる。実践・実践・実践。

このとき、神田正典氏の本を購入してある言葉に目がとまりました「魚の群れを探す…。」

そうです。よくよく考えると、私は魚のいない所で釣りをしていたのです。 魚のある情報を探さなくては…。と考えて、急いでまた本屋に行きました。そのとき見つけた本がデ☆ビュー。オーディション。という雑誌です。その雑誌を買って、オーディション主催会社に電話をしまくりました。今までは毎日100件かけても200件かけてもほとんどガチャギリ。状態だったのですが、今回この情報に載っているリストに書けると全く反応が違います。

「えっ。御社でもやっているの?安く作れる?」
「まさか御社から連絡くるなんて…。いったいどうしたの?」
「都合の良いとき来てもらえる?来年に向けて衣装の打ち合わせしたいんだけど…。」

今までと全く逆です。というよりも本に書いてあるとおり実践しただけなんだけど、ここまでお客様の反応が変わるとは思いませんでした。まさに殿様バッタの商売に変わったのです。買ってください。買ってください。の頭ばかり下げるお願い営業マンから、「お願いだから売ってくれませんか。」「御社から買いたいので相見積もりはありませんよ。」と180度変わったのです。体育会出身が売りの動きが良いだけの営業マンから稼げる営業マンに変わった瞬間でした。この経験で、とにかくチーム(部署のみんな)の為に仕事出来たかな?と思えた事が嬉しかったです。

野球は、投手が投げて野手裁いてアウトを取る。連携プレーが必須なチームワークのスポーツです。
同じようにビジネスの世界においても、新規顧客獲得。という営業手法を手に入れたことでチームプレーのビジネスへと成果の出た瞬間でもありました。

そして、3ヶ月間で13件400万円の売上げに繋がったのです。その中には、東映アニメのイベント用衣装製作やしまじろうの舞台衣装と誰もが知っている会社の口座を開ける事が出来たのです。さらに、あの衝撃を受けた筆者神田昌典氏と会って名刺交換もして、少しだけ仕事に関わった事がめちゃくちゃ嬉しかったです。それもすべて本当に90日で成果が出ました。これ以来、失敗を怖がらなくなり、とにかく実践・実践と実行出来るビジネスマンになったと感じています。

投資会社に就職し、東京JCに入会

衣装の仕事は、1回作るとそれで終わりです。また、私は、イベントごとが終わるとまたイベント会社を探して衣装製作の営業をかけるのです。これでは、いつまで経っても電話をかけまくる仕事をしないといけない。大手と取引しても毎回・毎日経費をかけて衣装を作ってくれるとは限りません。常に新規。常に新規開拓。とやっていかないとダメなのです。
ん~~。あの本の様に社長・ノウハウをもっと身近に感じたい。そんな思いから転職を決意しました。

溜池山王の投資会社に入社

今まで衣装関係の実業から金融関係にいきなり変えたのです。その頃、ちょうど世間では、ホリエモンやら村上ファンド等が世間を騒がせていた時代です。 ちょっと興味があったことと、社長は常にお金の管理をしないといけないのでその運用についてちょっと興味があって転職しました。

しかし、ここでは、法的な規制があって今までの営業ノウハウが生かせないのです。やり方を変えて人間関係作りからはじめて商売をしないといけない環境でした。スピード感を持って結果を出さないといけないブティック型の小さな会社でしたので、自分も焦っていました。しかし、全く結果が出ない。程なくして辞める事になりました。特にこの会社では仕事以外の人生について、いろいろな事を教わりました。 ここで得たモノは、一生の友人と仲間です。それは、社長から紹介してもらった東京JCに入会したことが大きなきっかけでした。

東京JCの皆さんとの交流

東京JCの皆さんと名刺交換すると、ほとんど独立している方かまたは2代目3代目100年続く7代目なんていう社長さんもいました。
うちの実家もビルメンの会社を創業していたのですが、これだけ2代目や3代目として立派に会社を引き継いで仕事をされている方が日本には多くいるんだな。と感じました。自分もいつかそうなるのかな?なんて考える事もありました。

JCでは、理念をもとに活動しています。
その理念とは、奉仕・修練・友情と3信条です。そのJCの活動はすべてボランティアです。社長業をして忙しい中、さらにボラインティアまでやるのか?信じられないな。と思いました。 そして、そのほとんどが中小企業の社長さんばかりです。この様な志高い人が世の中にたくさんいるんだな。と、今まで自分が知っていた世界観が狭すぎて自分が恥ずかしくなりました。

この中で、さらに私の挑戦心がわき上がります。この中でまた一番になりたい。そう思っていた中、実家に戻って来ないか?という時期と投資会社を縮小する時期が重なって横浜の父親が代表を務める会社に入社する事になったのです。

横浜根岸にある清掃会社に入社

営業としての採用でしたので、とにかくひたすら電話をかけまくる日々になりました。しかし、今度は1発勝負の仕事とは違います。一度契約を取ると保険会社の様に解約するまでは半永久的に続く売上げが上がる仕組みです。

いきなり年間売上げ1,200万円。月間100万円の売上げを上げる

その中の1社で清掃の管理仕事に困っている会社がありました。会社から30分くらいの所にある現場です。その現場をいきなり受注したのです。これには、周りもビックリです。自分は以前まで持っていた同じノウハウを応用しただけでしたので、やったぞ!という気持ちよりも、仕事が取れてほっとした。そんな感覚でした。
さらに、次々に取引先を拡大し、1年間で3,000万円近くの売上げを取ることに成功しました。

清掃会社からビル管理会社。下請け仕事から元請け仕事へ

入社当初は、清掃だけで売上げを上げていました。しかし、その時期から最低賃金上昇や清掃スタッフの雇用問題。さらに募集しても人が集まらない。下請け仕事なので利益がでない・・・。様々な問題が重なり、業態転換というよりも業態進化の方針を打ち出して、会社を大きく変えて行きました・・・・・。

ここまで業態進化・下請けから元請けビジネスへ転換出来たことは、多くのスタッフ・パートナー・多くの協力会社に助けられながら会社を発展させる事が出来ました。

最後に、野球で学んだチームプレー。社会人で実践したノウハウ。JCの理念

野球で学んだ試合をするからには必ず勝つ!社会人で学んだ社会で新規顧客獲得する為のノウハウ。さらに、JCで学んだ地域社会に発展する為の地域貢献活動と社長としての心構え。いろいろな事を多くの尊敬出来る先輩と環境から学びました。そして、今でも学び実践し良いことを真似しながら今に至ります。

特に、JCでの社会貢献の精神を学べた事は、今の人生を左右していると過言ではありません。同族で会社を続けていく日本の風土と環境を知った事で、同族会社としての運命として受け入れる事が出来ました。みんな同じ苦しみや考えがきっとあったと思います。その結果、会社も自分も大きく成長できるきっかけにもなりました。

そんな試行錯誤しながら、仕事を通じながら社会貢献する為にどうすればいいのかな?仕事を通じて会社スタッフが普通の幸せを手に入れるにはどうすればいいのかな?そして、お客様や取引先がもっとハッピーになれる仕組みはないかな??そんな事を日々考えて実践しています。
どうぞ、ホンモクをよろしくお願い申し上げます。

鳥海敦士